「一番近くのスーパーまで、車でどれくらいですか?」
そう聞かれたら、私は正直にこう答えます。「だいたい、片道40〜50分くらいですね」
驚かれるのも無理はありません。往復すればちょっとした小旅行です。
ここは熊本県の山深くにある「槻木(つきぎ)集落」。
駅もなければ、バス停もありません。ガソリンスタンドもなければ、信号機すら見当たりません。あるのは、険しい山道と、美しい川、そして80人ほどの住人たちの暮らしだけ。
私は今26歳で、仕事の関係で月に1週間ほど、この集落に滞在しています。
完全な移住者でもなく、かといって単なる観光客でもない。そんな「通い」の視点から、この不便で愛おしい場所について語らせてください。
「買い忘れ」が許されない場所

都会に住んでいた頃は、醤油が切れればサンダル履きでコンビニへ走れました。でも、ここではそうはいきません。
山道を下って町へ出るには、車で約50分。もし買い出しから帰ってきて「あ、洗剤買い忘れた」と気づいた時の絶望感と言ったら……(笑)。
「もう一回、あの山道を往復するのか?」と天秤にかけ、9割の確率で「まあ、なくてもなんとかなるか」と諦めます。
最初は、この「ままならなさ」に戸惑いました。自分の欲求がすぐに満たされない。その不便さを、どう受け止めればいいのかと。
コンビニはないけれど、「お隣さん」がいる

けれど、不思議なもので、人間はどうにかして生きていく術を見つけます。
槻木にはお店はありませんが、その代わりにおそろしく強力な「セーフティネット」がありました。
ある日、私が困っていると、近所の方が当たり前のように声をかけてくれます。
「どぎゃんしたと? これ、使いなっせ」
調味料がないなら貸せばいい。野菜がないなら畑から採ればいい。ここには、現代の都市部が失ってしまった「持ちつ持たれつ」の文化が、色濃く残っています。
私が挨拶回りに伺うと、大抵そのまま30分、いや1時間は帰れません(笑)。
住人の皆さんは平均年齢70〜80代。26歳の私とは、孫とおじいちゃん・おばあちゃんくらいの年齢差があります。でも、玄関先で
「まあ、よかよか。上がってお茶飲んでいきなっせ」
と招かれ、お茶とお菓子を出され、とりとめのない話に花を咲かせる。その時間が、たまらなく温かいのです。
不便だからこそ、人が支え合う。
モノがない分、心の距離が近い。それが槻木の流儀なのかもしれません。
何もないから、自分に還れる
日が暮れると、集落は静寂に包まれます。
聞こえるのは、川のせせらぎ、風が木々を揺らす音、時折響く鹿の鳴き声だけ。
仕事の合間、ふとパソコンから目を離して外の空気を吸うとき、とてつもない幸福感に包まれることがあります。
情報のノイズがない。余計な看板やネオンがない。
ただそこに自然があり、自分がいる。何もないからこそ、自分の思考がクリアになり、「これからどう生きたいか」「何が本当の幸せか」を、静かに問いかけることができます。
不便さを愛する、という選択
正直に言えば、ここでの暮らしは楽ではありません。冬の移動は厳しいし、虫とも戦わなければなりません。誰もが住める場所ではないかもしれません。
けれど、「便利さ」を追い求めることに少し疲れてしまった人にとって、この場所は「桃源郷」になり得ます。
お店までの50分の道のりを、「面倒」と思うか、「自分と向き合うドライブ」と捉えるか。
もし、あなたが後者のタイプなら。ぜひ一度、この長い山道を登ってきませんか?美味しい空気と、
「よう来たねぇ」
と笑う温かい人たちが、あなたを待っていますよ。