地下鉄の階段を上り、地上に出た瞬間。
「ブッ!!」という鋭いクラクションの音が、鼓膜を容赦なく叩きました。
目の前に広がるのは、ひっきりなしに行き交う車と、天を突くようなビル群。視界のどこにも緑はなく、ただ無機質なコンクリートとアスファルトだけが延々と続いています。
車のヘッドライトやビルから漏れる光が、やけに眩しい。息苦しさを感じて、新鮮な空気を求めて大きく深呼吸をしてみましたが、肺に入ってくるのは排気ガスとホコリが混ざったような、どこか美味しくない空気でした。

「ああ、戻ってきてしまったんだな」
月に一度の熊本県「槻木(つきぎ)集落」での滞在を終え、拠点である名古屋に帰還した私。
人口約80人、信号もコンビニもない山奥から、人口200万人以上の大都市へ。この極端な環境の変化がもたらすのは、まるで二日酔いのような強烈な違和感。私はこれを、密かに「コンクリート・ハングオーバー」と呼んでいます。
なんのために、そんなに急いでいるんだろう?
交差点の信号が青に変わると、人々が一斉に歩き出します。
ふとすれ違う人々の顔を見ると、誰もがどこか辛そうだったり、つまらなそうな表情を浮かべていたりします。そして何より、みんな驚くほど早足で、何かに焦っているように見えました。
「なんのために、そんなに急いでいるんだろう?」
そんな疑問が、頭をよぎります。都会では、「待つこと」は罪です。電車が数分遅れれば舌打ちが聞こえ、レジの列が少しでも滞ればイライラとした空気が漂う。私自身も、少し前まではその歯車の一部でした。

でも、槻木での「待つ時間」は、全く違う色をしていました。
お湯が沸くのを待つ間、窓の外に広がる緑の木々の鮮やかな色合いに見惚れる。誰かがやってくるのを待つ静かな時間の中で、ふと仕事の新しいアイデアが舞い降りてくる。
「待つ」という空白の時間は、決して無駄なものではなく、日常を豊かにしてくれる大切な余白だったのです。
その余白がほとんど生まれず、ただイライラするだけで消費されてしまう都会の時間は、なんだか少しもったいないなと思うようになりました。
すべてに値札がついた世界
名古屋に戻ってすぐ、喉が渇いてコンビニに入り、ペットボトルの水を買いました。
レジでお金を払いながら、猛烈な虚しさに襲われました。槻木なら、山から湧き出る天然の水が無料で飲めるからです。
汗をかいて歩いた後、手ですくって飲んだあの湧き水の、ひんやりとした感覚。口に含んだときの爽やかな口当たり。どんな高級なミネラルウォーターよりも、あの水の方がずっと美味しかった。
お昼に入ったお店で支払った1,000円のランチにも、ふと「高いな」と感じてしまう自分がいました。

もちろん、都会のお店で食べる料理は洗練されていて美味しいです。でも、槻木のおばあちゃんが「あんたのために」と出してくれた自家製の味噌。それをご飯に乗せて食べたときの、他のおかずなんて一切いらないと思えるほどの圧倒的な幸福感には、到底敵わないのです。
現代社会において、お金は生きていくために不可欠です。それは間違いありません。けれど、水にも、時間にも、人の温かさにさえ「値札」がついてしまう世界で、お金に縛られて生きるのは、どこか寂しいことだなと感じてしまいました。
「選べる」という特権を、どう使うか
こんな風に都会の文句ばかり言ってしまいましたが、私は名古屋での暮らしを完全に否定するつもりはありません。
コンビニがすぐそこにある便利さは心地いいし、時間を効率的に使えるおかげで、仕事の勉強や趣味にたっぷりと時間を割くことができます。
ただ、その「便利さ」には猛毒も潜んでいました。

休日、朝起きてもベッドから出ず、ダラダラとスマホを眺め続けてしまう時間。便利すぎるがゆえに、何もしなくても生きていけてしまうからこそ、私たちは時々、生きるエネルギー自体を失ってしまうのかもしれません。
槻木と名古屋。二つの極端な世界を行き来するようになって、私の中で確かな変化がありました。
それは、「自分は何がしたくて、何のために生きているのか」をじっくり考えるようになったことです。正解はまだわかりません。でも、焦らず、生き急がず、自分のペースで生きていこうと決めました。
やりたくないことは、出来る限りやらない。
現代は、どこに住み、誰と関わり、何をするか、ある程度「自分で選択できる」時代です。だからこそ、周りのスピードに流されるのではなく、その特権をしっかりと行使して生きていきたいと思うのです。
もし今、あなたが都会のスピード感に息苦しさを感じているのなら。周りの人が走っているからといって、あなたまで無理をして走る必要はありません。
次の休日は、少しだけスマホを置いて、あえて「待つ時間」を楽しんでみるのもいいかもしれません。
風の音に耳を澄ませ、木々の色を眺める。そんな何気ない空白の時間が、カチカチに固まった心を、きっと優しくほぐしてくれるはずです。