信号待ちのわずか数十秒でも、無意識にスマホを開き、満員電車に揺られながら、特に見たいわけでもない動画をただ流し見して隙間時間を埋める。
名古屋のオフィス街で働くそんな私ですが、その真逆で、私は月に1度だけ、熊本県の最深部にある限界集落「槻木(つきぎ)集落」にも通っています。槻木集落は、信号もコンビニもない人口80人ほどの限界集落です。
そんな都会のタイパ重視の生活とは正反対のこの地ならではの豊かな時間の流れに触れ、私が現地で体験したおすすめの過ごし方、大好きな過ごし方を4つにまとめたので紹介します。
目次
①片道50分の「信号ゼロ・山道ドライブ」
槻木集落にはお店がありません。そのため、食材の買い出しに行くには山を下って町のスーパーまで行く必要があります。一番近いスーパーまで、なんと片道約40〜50分。往復すれば2時間近くの過酷な小旅行です。
当初はぐねぐねとした険しい山道を車で走ることを、「面倒だな」と感じていました。運転があまり得意ではない私にとって、最初は少し身構えてしまう道のりだったからです。
しかし、通い始めて数ヶ月が経った頃、ある変化に気づきました。
信号に引っかかることもなければ、渋滞で前の車にイライラすることもない。スマホの通知も鳴らない完全な無音の空間。ただ目の前の道を真っ直ぐに進むだけのその時間が、いつしか仕事や人生について深く、静かに考える時間に変わっていったのです。

1年が経過した今では、このドライブは自分をニュートラルに整える「無意識の瞑想(メディテーション)時間」になっています。
デスクにいる時よりも思考が広がり、難しい仕事のアイデアがふっと浮かぶこともあります。不便だからこそ生まれる空白は、驚くほど頭の中をクリアにしてくれます。
②終わりなき「直射日光の下での草むしり」
槻木での日々のなかで、私が気に入っているのが農作業のお手伝いです。機械が入れない山の畑。夏の強い直射日光が降り注ぐ中、1本の鍬(くわ)を手に、どこまで抜いても終わりが見えない雑草の海と向き合います。
効率や生産性を重視する都会の物差しで測れば、「なんて効率の悪い作業だ」と絶望してしまうかもしれません。
けれど、実はこれこそが最高の贅沢なのです。
目の前の草を抜く、という単純なプロセスをただひたすらに繰り返していると、いつの間にか頭の中の雑念や焦りが綺麗にシャットアウトされていきます。

気づけば時間を忘れて、完全な「無心状態(トランス)」へ。
ただ目の前の土と向き合い没頭する時間は、現代において意外にも贅沢な時間の使い方だと感じています。効率主義の世界から完全に切り離される心地よさが、ここにはあります。
③塩コショウだけで引き出す「ただの玉ねぎの重厚感」
都会にいる頃の食事は、どうしても手軽で味の濃いジャンクフードやチェーン店に頼りがちでした。それはそれで美味しいのですが、槻木での食事体験は、素材そのものが持つ本当の価値を教えてくれます。
ある日、集落で採れた「ただの玉ねぎ」をざく切りにし、フライパンで塩とコショウだけでサッと炒めて食べてみました。
一口食べた瞬間、その圧倒的な存在感に言葉を失いました。特別な調味料(ロジック)を足さなくても成立する、野菜本来の強烈な甘みと、炒めた時の香ばしい味わいが口いっぱいに広がったのです。

大自然の恵みをたっぷりと吸い上げて育った食材には、数値では測れない「素材の重み」があります。
このシンプルな味覚の体験によって、日々の忙しさで錆びついていた五感のセンサーが、鮮烈に再起動していく感覚を味わえます。ただ食べるという行為が、これほどまでに心を豊かにしてくれるのかと感動します。
④夏でもひんやりする「徒歩1分の川(青空銭湯)」での時間
都会では、時間を1分1秒単位で切り詰めて「消費」することに追われがちです。しかし、槻木にはタイムスケジュールなんて存在しません。
私の大好きな特等席は、活動拠点から歩いてわずか1分のところにある、驚くほど透き通った清らかな川です。夏でもひんやりと冷たい水にそっと身体を浸し、その冷たさに慣れていく心地よさに身を委ねます。

遮るもののない澄み切った青空と、視界を覆うほどの深い緑をただ眺め、プカプカと水面に浮きながら、川のせせらぎと風の音を全身で聴く。
お金を払って何かを体験するのではなく、そこに在る自然と一体になる。ただそれだけの時間が、今、最高に幸せだと胸を張って言えます。タイムスケジュールのない空間だからこそ味わえる、究極の余白の過ごし方です。
完璧を手放し、自分の感性を洗練させる場所
槻木集落の住人たちは、生きる達人ばかりです。
手塩にかけて育てた畑をサルに綺麗に荒らされてしまっても、「あちゃー、とられちゃったねぇ」とカラッと笑顔で笑い飛ばしてしまいます。都会の感覚なら絶望しそうな出来事も、豊かな不完全さとして受け入れてしまう強さがあります。
都会で暮らしていると、どうしても「完璧でいなければならない」という分厚い鎧を着込んでしまいがちです。しかし、この集落の温かい不完全さに触れていると、その見栄や鎧が心地よくポロリと崩れ落ちていくのです。

私にとって槻木集落は、現実の戦いから逃げ出すための場所ではありません。情報のノイズを削ぎ落とし、自分の五感や感性を極限まで洗練させ、フラットな自分を取り戻す場所です。
圧倒的な余白のなかで自分自身を再起動させ、長い山道を下って日常へと戻るとき。不完全さを受け入れた私の心は、以前よりもはるかにフラットで、研ぎ澄まされた状態になっています。

ぜひあなたも、機会があったら無駄を味わうための時間を作ってみてください。どこでその感覚を味わうか、場所に困ったなら、私は大自然の中をおすすめします。
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