信号待ちのわずか数十秒でも、無意識にスマホを開き、満員電車に揺られながら、特に見たいわけでもない動画をただ流し見して隙間時間を埋める。

名古屋のオフィス街を「スマートな自分」を演じるための重い鎧(見栄)を着込んで歩きながら、私は今日もせわしなくキーボードを叩いています。

ですが、効率を高めること、何かを消費し続けることだけが、本当に人生を豊かにしてくれるのでしょうか?

今回は、名古屋で会社員として働きながら、月に1度だけ熊本県の槻木集落に通う26歳の僕が、この集落を「世界最大のインスタレーション(空間美術)」として鑑賞して気づいたことについて、等身大の言葉で紹介していきます。

目次

  1. 日常と非日常の境界線。トンネルの先にある『美術館』
  2. 大自然からの贈り物で、五感を再起動する
  3. 意味を必要としない、他愛のない対話芸術
  4. 見栄の『鎧』を脱ぎ捨て、ポンコツな自分をさらけ出す
  5. 何もない場所にこそ、美しさは眠っている

日常と非日常の境界線。トンネルの先にある『美術館』

都会のノイズから抜け出し、月に一度、多良木町の険しい山道を登っていくドライブ。

ぐねぐねとした道を車で走るにつれ、だんだんと怪しく、深く、力強くなっていく大自然の景色。運転が得意ではない僕にとって、最初は大変な道のりでしたが、今では目の前の道だけに没頭できる「最強のメディテーション(瞑想)」のような、心地よいワクワク感を与えてくれる大切な時間になっています。

その道中に、ふと、細くこじんまりとしたトンネルが現れます。

暗闇をくぐり抜けると、さらに濃くなる山奥の空気。まるで『千と千尋の神隠し』のあの不思議なトンネルを抜けて、別の世界に迷い込んでしまったかのような感覚に陥ります。

槻木集落へ続く山々と朝霧

そこは、信号もなければコンビニもない、人口80人ほどの限界集落「槻木(つきぎ)」

初めてこの地を訪れたとき、私の頭には「何もない不便な場所だな」という薄っぺらい言葉がよぎりました。

切らした醤油をサンダル履きで買いに行けるコンビニも、忙しく点滅して立ち止まりを強要する信号機もありません。でもそれは、都会のチカチカした広告やスマホの通知といった過剰なノイズに慣れすぎて、私の目のセンサーがバグっていただけだったのです。

夕暮れ時の槻木の美しい空と影

夕暮れ時、宿泊場所から庭に出て、ただゆっくりと流れる雲の動きや、刻一刻と変化していく山の稜線の影をじっと見つめてみる。

すると、いつも名古屋のオフィスで感じていたぼんやりとした焦りが、スパッと、綺麗に消えていく感覚がありました。

都会を「すべてに値札がついた商業的な展示会」とするなら、何もないと思っていた槻木の余白には、自然が見せてくれる美しい色や影のアートが、最初から豊かに眠っていたのです。

大自然からの贈り物で、五感を再起動する

都会での「水」は、毎月決まった料金が引き落とされるインフラであり、コンビニで100円を払って買う「商品(サービス)」でした。

でも、槻木ではその常識が気持ちいいほどに崩壊します。

滞在中、宿泊先のおばあちゃんに「お水いただけますか」と聞いた時のこと。当たり前の顔で「外の湧き水を飲みな」と言われました。飲み水、生活用水のすべてが湧き水だったのです。

美しく澄んだ槻木の湧き水

その冷たい湧き水をコップに汲んで、ゴクリと口に含んだ瞬間。

「めちゃくちゃ美味しい……!」と、心の中で叫びました。

都会の水道水とは全然違う。クリアで一切の雑味がなく、でも少し舌に重みを感じるような奥深くて冷たい味わい。ただその水を飲んだだけなのに、いつもより気持ちが良く、すっきりした気分になりました。

見えない山奥から、長い年月をかけてろ過された水が、水道管を通して湧き出ている光景。それはまさに、大自然が私たちに直接届けてくれる極上の「ギフティング(贈り物)」でした。

そして、この地でいただく食事も同じです。

香ばしく焼き上げられた新鮮な川魚

さばかれた直後の筋肉が隆起したジビエ肉や、焼いている段階から香ばしい匂いが濃く立ち込める原木椎茸、そして清流で獲れたばかりの川魚。

本来の生命としての在り方を再認識し、その生きる力を取り戻したかのように、私の五感は敏感にすべてを吸収しようと再起動し始めます。

深夜の牛丼チェーン店で、無心で胃袋に食べ物を流し込んでいた時とは違う。「たくさんの命をいただいて、今自分は生きているんだ」という圧倒的な実感が、身体をじわじわと満たしていくのを感じました。

意味を必要としない、他愛のない対話芸術

都会での会話は「ロジック」や「結論ファースト」を求められ、ドライなプレッシャーの中で話をすることは多いかと思います。

でも、おばあちゃんのひんやりとした土間に案内され、お茶と酸っぱい自家製の白菜漬けをいただきながら交わす会話には、アジェンダもなければオチもありません。

「昨日は寒かったねぇ」「イノシシに畑を荒らされてねぇ」そんな他愛のないトピック。

言葉も「球磨弁(くまべん)」の洗礼を受け、最初は正直8割近く理解できませんでした(笑)。

おばあちゃんの手から差し出されたカゴいっぱいのブルーベリー

ある日のこと、現地の方が笑顔でカゴいっぱいのブルーベリーを差し出してくれました。

「食べていいよ」という意味だと思って、嬉しそうにつまみ上げようとしたら、冗談交じりにペシッと怒られたり(笑)。

「すいません!意味が理解できてなくて!」と冗談で返し、おばあちゃんと顔を見合わせて大笑いしたあの瞬間。

たとえ言葉の意味が100%分からなくても、ボディランゲージや表情、その場の温かい空気感だけで、不思議と心地よいダイアローグ(対話)が成立してしまうのです。

集落ののどかな風景と猫

また、現地の方が使う、手脂が染み込み、黒光りする使い込まれた木製の道具を見たとき。

工場で作られた冷たいプラスチックや金属の最新スマホを握る私の手と並んだ時、その「生きる力」の違い、歴史の美しさに、ただシンプルに「かっこいい」と感じずにはいられませんでした。

意味のあることばかりを求めていた自分が、ここにくると「意味なんてなくていいんだ」と深く腑に落ちて、心がゆっくりとほぐれていくのが分かります。

見栄の『鎧』を脱ぎ捨て、ポンコツな自分をさらけ出す

槻木での私は、田植えのやり方ひとつ分からず、ただの役立たず(笑)。

「そんなことも知らないのか」とカラッと笑われ、足手まといになりながらも、無知な自分、できないポンコツな自分をありのままにさらけ出しました。

その時の気持ちはとても開放的で、自由で、どこか美しいアートの雰囲気を感じさせました

できない自分を「当たり前だよね」という姿勢で接してくれる安心感。変に取り繕う必要がない環境は、私にとって究極の心理的安全性でした。

槻木集落から見下ろす街の美しい夜景

夜、活動拠点からふと見下ろす、遠く下界の町の夜の光。

自分が必死に戦っていた商業主義を思い出させる光を、静かに引き算された槻木の漆黒の闇から、一枚のキャンバスのように静かに「鑑賞」する。

その瞬間、肩の力がふっと抜けて、どこか「自分は自分のままでいいんだ」と、静かで確固たる自信が体の中から湧き上がってくるのを感じました。

何もない場所にこそ、美しさは眠っている

月に一度の滞在を終えて名古屋に戻ると、交通量の多い道路や飲食店の昼食の料金を見た瞬間に、

「ああ、やっぱり高くてお金がかかるな、商業感に溢れた空間に戻ってきたんだな」

という「コンクリート・ハングオーバー(違和感)」を感じます。

けれど私の心の中には、あのひんやりとした湧き水のクリアな味わいやおばあちゃんの手の温もり、そして星空の静寂が、確かに息づいています。

「何もないと思った場所にこそ、魅力が隠れている。そこにこそ、本質的なアートが眠っている」

都会で忙しく働くみなさんも、ほんの少しだけでいいので、明日からその視点を持ってみませんか。きっと住む場所は関係ありません。この気持ちを持つことが大事なのかなと思います。

もしそれでも足りなくて、五感のすべてを思いっきりリセットしたくなったら。槻木集落のような大自然に身を置いてみることもおすすめです。

私が通っているつきぎ集落(多良木町内)に少しでも興味を持っていただけたら、ぜひ以下の記事もご覧ください!

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